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美霊というべき女優についてセクト・テロル・カルト・ホラー・アポクリファ*1

          =sect terror,cult horror,apocrypha=

 

 *1  Apocrypha (旧約聖書の)外典・偽典。Apocalypse(新約聖書の黙示録)とは異なる。

 

第1章 山村貞子の青春時代

 

 梅雨の合間のひどく暑い日だというのに、キャンパスに一瞬、冷たい風が吹き渡ったような気がして、二人の男子学生が囁き合った。

 「いますれ違った彼女は、美しいというより崇高だね。美という感情は、快楽にもとづき、崇高という感情は、おぞましいもの、恐ろしいものを克服したところに生まれる、というよ

 「さっきの英文学史の講義の受け売りだな」

 「まあ、ね。ともかく、怖いような美しさというか、崇高さの漂う美少女だよなあ、ほんと」

 周囲の猛暑さえ凍てつかせる雰囲気を放つ、一種異様なまでの美少女が、すべるような足取りでサークル室の集まった建物の方へと消えていった。昭和41年(1966年)の初夏のことである

 

 「さすが、貞子ちゃんは元東大教授の隠し子という噂があるだけあって、頭がいいねえ」

 すっかりやりこまれた格好の狩元嗔一郎は、やや皮肉な表情を浮かべながらも、率直な感嘆を惜しまなかった。

 すっかり日が長くなり窓の外はまだ明るさが残っている。小さな扇風機は熱気ともうもうと立ちこめる紫煙を掻き混ぜるためにのみ忙しげに回転している。掻き混ぜられて螺旋みたいにうねる紫煙の彼方には、「学長は学費値上げを白紙撤回せよ」とか「自国帝国主義打倒! 世界同時革命!」とか、角々したゲバ字、トロ字などといわれていた書体で書かれた立て看板がみえている。角度の具合でちょうど夕日で赤々と染め上げられている。威勢のよい掛け声も、この猛暑には溶けて流れそうである。

 

 貞子が学生たちとの研究会に参加していたのは、慶応大学のとあるサークル室においてであった。ちょうどこの頃は、日本にビートルズが来たとか来るとかいって、世間では大騒ぎしていた頃で、学生たちに長髪が流行するのもまだずっと後のことである。学生たちのいでたちといえば、まだまだ素朴なワイシャツに学生服ズボンといった者が多い。貞子も取り立てて派手な服装をしているわけではないが、風貌からしていかにも場違いな感じはした。

 窓は開け放しているが、熱気は耐え難い。壁にある本棚には、いまにも西日によって赤々と燃え上がりそうなレーニン全集やら、岩野弘蔵『純粋資本主義世界』やら、姫園玲子『企業統治の理論による国家独占資本主義への忠勤』やら、かと思えば、発禁本のマルキ・ド・サドの『悪徳の榮え』だのローレンスの『チャタレー夫人の戀人』だの、あるいは桃源社版の澁澤龍彦『黒魔術の手帖』だのが並べられている。サークル室の「共産主義の黎明」研究会なる看板のウラには、ちゃっかり誰かの手で、「悪魔主義者同盟全国事務局」などと落書きもされているのである。

 

 彼女もすでに二時間ばかり、五〜六人の男女の学生たちといっしょに議論をしていたのだが、いつのまにか彼女がひとりで喋り続けていたようである。さすがにみんな汗だくなだけでなく、憔悴した表情を浮かべていた。それをみてとって、リーダー格の狩元もそろそろ議論を切り上げるべく話題を転じようとしたのであった。

 それにしても、あらぬ噂にやたらと詳しい人、と彼女は眉をひそめざるをえない。事実は、元教授ではなく元助教授ではあるが、どこでそんな情報を手に入れたのかしら、と訝しい思いもする。だが、間髪を入れず、

 「あら、狩元クンのチチギミだって判事さんだっていう話だわ」

 と貞子の隣に座っていた女子学生が半畳を入れてくれたので、話はすぐにそらされた。

 

 「ところで、あの劇団の幹部、代々木や革マルのシンパが多いみたいだけど、ごたごたして雰囲気悪いんじゃない? 大丈夫?」

 と何にでも事情通の狩元は、今度は劇団の内部事情についての話題にしはじめた。じっさい、ある程度までは、雰囲気は悪い。派閥のようなものがあって、お互いにいがみ合みあったり、無用の陰口を叩き合っているようなところがないわけでもない。とはいえ、それはまだ目に見えない空気のようなものにとどまっているとも思う。

 「どうでもいいのよ、そんなこと。劇団はそれなりに仲良くやっているわ。じつは、わたくし、来月の公演で主演に抜擢されることになったのよ。それもあって、今日は是非みなさんにチケットをお買いあげいただけたらば、と思いまして・・・・」

 「へえ、そりゃおめでとう。もちろん、応援させて貰うよ。なあ、みんな」

 と、彼女の美貌に圧倒されている男子学生たちだけは無条件に大歓迎の様子だった。

 

 彼女の所属する劇団飛翔は、地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅の近くにあり、幹部クラスには代々木系と革マル系のシンパが多かったが、若手や学生団員にはブンド系のシンパもいて、貞子も小さなデモにいったり、慶応大学の学費闘争を覗きにいったりすることもしばしばであった。そんなこんなで、いつしか慶応の自治会委員長であった狩元嗔一郎らのブンド系の学生たちとの研究会にも、なんとはなしに加わるようになっていたのだった。

 

 この時代にタイムスリップでもすれば、学生たちの顔もシラケだの挫折だのといった鬱屈には随分と程遠い、屈託のない希望に満ちたものにみえることであろう。それどころか、この当時はまだゲバ棒もヘルメットすらも、このあと一年余もしなければ登場することのない牧歌を残していた時代であった。学生運動といっても60年安保のあとの低迷期で、どちらかというと文化サークル運動のような雰囲気があった一時期なのかも知れない。だから、1970年代以降に大学生になった世代には信じ難いことであるが、このころの劇団での主役抜擢にいたる時期、貞子にとって新左翼学生たちとのは議論は、なかなか知的にスリリングなものであったのである。

 この日は、議論がいつの間にかおおきくそれて、遺伝子の二重らせん構造の話に発展していた。父親が医学者だった貞子は、この話題は得意分野であったから、大学生たちもすっかり聞き役に回っていたのだった。

 

 と、そのときのことである。

 「よお、狩元。元気? たまにはそっちも中大の学館のほう応援に来てよ・・・・」

 といいながら、精悍さと愛敬にみちた体格のきわめて立派な活動家が顔をみせた。

 「あ、紹介するよ、こちら山村貞子クン。美人だろう、なんたって劇団飛翔の女優さんだからね。こちらはわれらがブンドの大幹部で、アジテーションが上手でアブサンが好きだから、通称アジさん。劇団飛翔の幹部には代々木系のシンパが多いけど、いずれこの山村クンが逆オルグしてくれると期待していいよ、アジさん。何しろ、顔よし、芝居よし、頭よし、たちまちのうちに頭角を現す人だよ。で、チケット販売に協力してくれ」

 「おお、いいよ。駿河台の方でいくらでも捌いてやるから・・・・」

 

 この、新左翼学生のリーダーにはとてもみえない感じもする体格のよい好人物といった青年が小脇に抱えていたのは、経堂源蔵の論文が掲載された雑誌のようであった。この年1966年の1月から6月まで六回にわたって連載されてきた「情況にとって美とはなにか」の最終回分が載っているらしい。この論文は、「自立の幻想的な根拠地」とともに、60年安保以降苦闘してきた経堂源蔵における、思想的展開の一つの頂点を示すものだと言うことである。秋にはそれらがまとめて単行本で出るという。

 

 当時は詩人で思想家の経堂源蔵が非常に熱心に読まれている時代で、貞子も上京してからけっこう読んでいたのだが、このときなぜか、くっきりと貞子の眼には、全然その著作とは縁のなさそうなイメージが、鮮烈なビジョンとなって飛び込んできたのだった。それはいわば、通俗SF小説にありがちな「人類進化」などというイメージであったのだが、しかも、それに続いて、いまだ読まれざる1990年12月に経堂源蔵が刊行する筈の、『高度のオイディプス運命悲劇の解読』において、人類進化への絶望的な希望が語られるビジョンが浮かんできたのだった・・・・。

 

 これから絶滅するのか、また進化するのかわかりませんが、そんなときにも観念性とはちがう次元で進化するか絶滅するかということは起こる気がするんです。(中略)それがどこからはじまるかということはたぶん、共同的な倫理と個的な倫理共同性と個体性の摩擦面というようなものが倫理ですからが、外側の条件によってまったく乖離してしまう、まったく矛盾してしまうみたいなことが起こったときは、もうちがう次元で融和する、それ以外にないんじゃないかな。それはそんなに遠くない時期に起こるんじゃないかな。もっと簡単にいって社会的な通念のレベルと自分の実感的なレベルが、倫理的に矛盾している状態があるとします。その状態が極端になっていったときに、どこかで妥協が成立できる範囲内では、そうしていくでしょうが、できなくなるまで矛盾が激しくなったら、たぶん外側からの条件で、全然ちがうところに倫理的な水準が移ってしまう気が僕はしますね。そしてまた融和が成り立つ。(中略)二つの間でいくらちゃんばらしていても、このちゃんばらで解決がついたというふうにはいかないとおもいます。もっとちがう条件が、身体的な条件が、外側からやってきて、めちゃくちゃに条件が激変しちゃったために、思いもかけない次元でたぶんそれは解決されちゃう。*2

 

 一瞬、貞子は、「アジさん」が狩元たちに、このあと彼女も含めて一緒にジャズ喫茶でも行こうよと持ちかけているらしい声も、なんだか遠くのほうに感じていた。彼女はこのときみえたビジョンが、言い様もなく不安で、言い様もなく巨大な光と雲が渦巻きうねるようなビジョンとともにであったのをまざまざと憶えている。

 

*2  吉本隆明『ハイ・エディプス論』言叢社、1990.12、pp258-260より

 

 今日ではよく知られているように、山村貞子は、東大医学部を追われた元助教授・伊熊平八郎と超能力者・山村志津子との間に生まれた、古い言葉でいういわゆる不義密通の子であった。霊感が異常に強い子であった。頭もたいへんによかったが、それ以上に冷たいような類い希なほどの端整な容姿に恵まれていたので、頭のよいという印象はむしろ隠されがちだった。

 

 そんな山村貞子は、高校を出るとすぐに伊豆大島を出て上京した。貞子には、みずからが過剰に与えられてしまった三つのものが、彼女にとってもたぶんこれから他人にとっても不幸をもたらすだけなのかもしれないと言う不安が、ものごころついて以来はなれたことがなかった。三つの過剰なものとは、いうまでもなく超能力と知能と美貌である。とくに前の二つは予知能力としてわかちがたく結びついていて、彼女が現実社会で生活することを困難たらしめるほどのものであった。

 

 仕方なしに彼女はいちばん無難な美貌を生活の糧とすべく、劇団に入ろうとしたのであった。どちらかというと内向的で暗く冷たい印象を与えがちな貞子にとって、劇団女優が天性向いているとはいえなかった。絶望と希望に燃えて貞子は、劇団飛翔に所属していた。だが、だからといって、台本の解釈の力や感情表現の深さでは群を抜いていたし、神秘的な雰囲気とあいまって、まるっきり向いていないどころではなく、劇団の中ではたちまちにして頭角をあらわしていったのだが。

 

 −−−

 

 コリントの王ペリアンデルは、或る夜、二人の若者を呼び寄せてこう命じたといわれる。ここにひとつの秘密な抜け穴があるが、明晩そこへ赴いて最初に会った人間を殺害して、その被害者を直ちに埋葬せよ、と。

 そして、この二人の若者が退くと、つづいて四人の若者が呼ばれて同じような命令を受けたのであった。秘密な抜け穴で出会う二人のものを殺害して直ちにその場に埋葬せよ、と。

 

 四人が退くと、さらにその倍数の者が呼ばれて同様な命令を受けた。

 かくのごとき数学的ともいうべき無限殺人の厳密な状況を設定すると、やがて定められた時刻にペリアンデルはそこへ赴いて第一の被害者として殺された、といわれる。

 

 この挿話は屡々私の想起するところのものであるが、想起する度につねに底知れぬ晦暗の深い井戸を新たに覗きこむ感にうたれるのは、何時いかなる時代においても、いかなる環境にあっても、たとえ果てもない狂気の無気味な縁にまで近づこうとも、ひとつの状況のなかへ投げ込まれた人間がそこから抜け出ようと試みなければやまない自己超克の暗い衝動の凄まじさに接して、強く揺すぶられるからである。*3

 −−−

 

*3  埴谷雄高「暗殺の美学」『中央公論』1960.12、『罠と拍車』未来社より

 

 以上は、1966年夏の劇団飛翔の公演の劇中、作家の埴輪豊若からの一節の朗読である。朗読は主演に抜擢された期待の新人女優・山村貞子

 だが、この山村貞子を主演とした劇団飛翔の公演は、興行的にいうとさほど芳しいものではなかったようだ。容姿、知性、神秘的な雰囲気、それに堅実な努力によって磨かれた演技力、どれをとっても申し分ないのに、なぜか集客能力のようなものが欠けていた。

 「ようするに、山村は美人すぎて大衆ウケしないってことさ。落ち込むことはないよ。台本もやたらと小難しかったしさ」

 と、劇団の連中は慰めてくれたが、さすがの貞子もこのときには、その透明な氷を思わせる容貌から、ひんやりとしたものが全身の毛細血管のすみずみにまで忍び込んでゆくような、言い知れぬわびしさを感じざるをえなかった。

 

 この直後から、よく知られているように、山村貞子の消息は劇団員の前からも、ブンドの学生たちの前からも掻き消えてしまったのであった。それは、過剰な美貌さえも彼女には、いや大衆にも、何物をももたらしえぬのをいまははっきりと知ってしまった彼女の、なにか覚悟のようなものによっていたのかも知れない。

 

 むろん、人々の前から唐突に姿を消した1966年盛夏の山村貞子は、ひっそりと伊豆の療養所で、結核に冒された実の父親である伊熊平八郎の看病をして日を暮らしていたのである。当時新しい知見であった遺伝子などの話しをしながら、父子ともにその最期の日々の、静かな生活をじっくりと味わっていた。

 

 ある日、父親の平八郎が貞子に語りかけた。この日も残暑は厳しく、蝉の声が鳴り響くようであった。

 「わしもお前もこうなっては、毎日が夏休みのようなものだねえ。しかし、わしが死んだら貞ちゃんの夏休みも終わりだよ」

 むろん、医学者だった平八郎は自分の死期を悟っていた。超能力者だった貞子は、平八郎が死期を悟っていることをわかっていた。だから、あえてこのようなことを口にしたことのなかった平八郎であった。それが、珍しくこんなことを言い出したのは、それだけ死期が目前に迫っていることを感じ取ったからであろう。貞子は、その異様なまでに大きな眼になんらか表情の出るのを必死に押さえつけるために、蚊取り線香のらせん模様の尖端からゆらゆらと立ち上る煙をみつめた。蝉の声はなるほど「閑けさ」なのだわ、と耳にわんわんと鳴り響く中で感じていた。

 

 「あら、夏休みが終わるなんて、考えたくもないものよ」

 貞子は、いまは唯一の肉親の残り少ない砂時計の砂を惜しむように、これだけの言葉を噛み締めるように呟きうるのみであった。

 こんな父子二人にとっての最期の時を過ごしながら、山村貞子が死の直前の日々に考えていたことは彼女自身にとってさえも謎めいている。彼女の予知能力は唯一の肉親の死だけでなく、彼女自身の、そして、彼女たちの遺伝子の滅び去ることの予感をくっきりと感じていた。感じながら彼女は、もはやあまり病室につきっきりになるでもなく、療養所の傍らにある林の木蔭にもたれながら、どこか遠くをみつめているのだった。それは、真夏の青々とした海に浮かぶ伊豆大島の故郷の方角だったのであろうか、それとも志半ばであとにした舞台のある東京の方角だったのであろうか。

 

 しかし、まさにこのとき、永い間、貞子が惧れてきた自分と他人に呼び起こしてしまうであろう不幸が、典型のように起こることとなってしまったのであった。

 

 天然痘の療養所でもあったために、天然痘に感染してしまい、そのせいで自制力を失いかけていた長尾城太郎医師が、真夏の猛暑の中でふと貞子の過剰な美貌に我を失ってしまったのだ。こうして幸薄かった山村貞子の青春時代は唐突に途切れたのだった。

 しかし、長尾医師に林の中で襲いかかられ、貞子は必死の抵抗はしたものの、最期に井戸に落とされるときに、彼を呪い殺そうなどとは夢にも思わなかったし、現に長尾医師は呪い殺されたりはしなかった。こちらがやらなければやられると感じたと、のちに長尾医師が弁明しているような、貞子から発せられる強烈な殺気とは、母親の志津子や貞子の能力について聞き及んでいた長尾医師が、とっさに自らの罪の意識を投影したものにすぎなかったのではないだろうか。あるいは、二十数年もへて浅川和行と高山竜司が唐突にあらわれて問詰するまでの長い間に、徐々に積み重ねられていった自己正当化による記憶の歪みであったとみるべきかもしれない。

 

 子供時代の貞子を知る人々にとっては、その冷たいような風貌からはむしろ裏切られたかのようにさえ感じられた慈しみの深さが印象的であった。新聞社に勤務していた浅川が生前に残した、有名ないわゆるリング・リポートには、彼と高山竜司が井戸の底から見いだした貞子の遺骨を伊豆大島の親戚である山村家に届けた際の様子が、つぎのように記されている。

 

 浅川が両手で差し出して、「貞子さんの遺骨です」と言うと、貞子の大叔父にあたる山村敬はしばらくその包みを眺め、懐かしそうに目を細め、やがてつかつかと歩み寄って深々と頭を下げて受け取ったのだ。「遠いところ、わざわざどうもご苦労様です」と言いながら・・・・。浅川は拍子抜けした。こうも簡単に受け取ってもらえるとは思ってもいなかった。山村敬は浅川の疑問を読み取り、確信に満ちた声で言った。

 「貞子に間違いございません」

 三歳までと、九歳から十八歳までの期間、山村貞子は山村荘で過ごしている。今年六十一歳の山村敬にとって、貞子はいったいどんな存在だったのか。遺骨を受け取る時の表情から推して、かなりの愛着を注いだらしいことは想像できる。(リング・リポート、角川文庫版 p298 より)

 

 同じく浅川和行のリング・リポートの少し前の部分には、次のようにある。

 

 山村貞子はここで不幸にも人生の幕を閉じ、死の瞬間に閃いた様々なシーンが「念」の力によって強くこのあたりに残ってしまったのだ。それはおそらく、狭い穴の中でたっぷりと時を費やして熟成し、潮の満ち引きのように呼吸し、ある周期で強弱を繰り返し、たまたまこの真上に位置するテレビの周波数と一致したところで、すうっとこの世に現れ出てしまった。(中略)山村貞子、山村貞子、その名前が脳裏に連なり、恐ろしいばかりに美しい彼女の顔が写真から浮き上がってなまめかしく首を振った。山村貞子はここにいる。(リング・リポート p284)

 

 彼女は、浅川和行が生前に書き残したリング・リポートを何度も読み返しながら、なぜ「呪いのビデオ」などというものが産み落とされてしまったのかを考えていた。

 「私はなぜ、1991年8月26日というそのときに、あのソ連という歴史の逆説が八月革命で最終的に崩壊し去った直後のそのときに、呪いのビデオを生み出してしまったのか・・・・。あの1960年代という時代の人たちが、人生を賭けて打倒しようとしたものの喪失感と無念さとが・・・・。井戸の底に封印されていた私の無念さを呼び覚ましたのかもしれないのだけれども・・・・」

 

 念というものは、おそらくむしろ無意識的なエネルギーであって、自覚的な意識とは別のものである。愛情深い優しい娘であった貞子の無意識の怨念は、貞子の意識とはまったく別のエネルギーとして井戸の底に蓄蔵されていたのである。そしてまた、知識的でもあった貞子の無意識の周波数は、1991年の夏というそのときに、無数の無意識の無念さと輻輳し共振し、ついにたまたま封印された井戸の真上に位置するテレビの周波数と一致するまでに増幅されてしまったのかもしれない

 

 「私が、漠然と世の中がよくなればいいなあと言うのと同じ程度の感覚で、ときに大衆というものに溜め息をついて人類進化のビジョンを思い描いたことがなかったわけじゃないけど・・・・。そう、たしかに井戸の中で幾許かの時間、意識が続いていた間、さまざまな想念が行き過ぎるなかに、劇団飛翔の朗読劇でそらんじたことのある作家の、当時はいまだ読めなかった筈の文章も束の間あらわれては消えていったのだった

 

 薄暗い気配がひとつの輪郭になる暁方の夢の原始のかたちを追うごとくに、私達の欲望の裸かのかたちを追ってみれば、ギリシャやインドで或る基準をおかれた生と性のあり得べきかたちが僅か数千年のあいだに一つの実現に達していることを示されてまず驚くのである。と同時に、僅かな小さな芽を擡げただけで圧しつふされてしまったさだかならぬかたちもないかたち、薄暗い隅から隅へ掠めゆく何かの影の影のあまりに多いことにまた驚かされるのである。

 

 単性生殖から両性具有者までの距離を一とすると、少なくとも、千や万になり得た筈の生のかたちの夢想が、そのとき、魂の閾の彼方に覗かれるのであって、もし私がその中の一つを選べといわれれば、根源を根源で割った負荷物質、いわば形而上の鏡のなかの影のごとくに思想のなかにだけ映しだされる非存在である虚体となって羽化登仙、永劫から永劫にわたって闇のなかに目を見開いたまま横たわっていたいと願うほどである。*4

 

*4 埴谷雄高「黒いランプ」p239、『世界』1967.1、『渦動と天秤』未来社より

 

 そう、わたしは横たわっていたかったのだ、あの闇の奥の底に。あのとき、かすかに差し込む日の光と、それに瞬間映し出されたひとひらの菜の花の花びらと、うっすらとした涙とが、わたしの目には浮かんでいたけれども

 そして、そう、最期へと消えゆく瞬間にみた最後のイメージは、やはり先の作家の文章のようであった。

 

 ところで、この数千年あいだにやや着実な実現に達した私達の欲望の側にも、まったく予期せざるもの、の突然変異のかたちが、さながら同一意味をもった異形活字のごとくに並んで、私達を錯誤に誘っていなくもないのである。恐らく、生の単純操作しか知らない私達のあいだで思いもよらぬ突然変異が生ずるのは、極めて大ざっぱにいえば、つくりだされたものによって、私達がまたつくられることに由来する。*5

 

*5  同前より

 

 だけど、その意識イメージと無意識の無念さとが結びついて、DNA塩基配列の暗号に変異をもたらし、見ただけでリング・ウィルスを発生せしめて死に至らしめるなどとという酷い「呪いのビデオ」を生みだすこととなるなんて、考えられもしなかった。ましてや、排卵期の女性高野舞さんがそのビデオをみることによって、彼女を犠牲にして自身が蘇ってしまうなどということは。だいいち、あまりに荒唐無稽だわ。

 

 誰も、自分がどうなるかなんてわからない

 

 1992年4月末。滞在場所として宮下医師安藤医師とともに貞子の協力者となったから提供されている信濃町の慶応大学病院からちょっと離れたところにあるホテルの一室。窓の下の東京は、そう、あの日の三田の慶応キャンパスの本棚と立て看板を思い起こさせるように、朝日で赤々と染め上げられている。

 甦りを果たしてから、もうじき半年になる彼女は、何度も何度も溜め息を繰り返すのだった・・・・。

 

 それにしても、あの日、彼女が父親譲りの知識で語った遺伝子やウィルスに関する話しが深層意識に残っていたものか、二十年以上もたってから、当時の慶応大学の自治会委員長だった狩元嗔一郎がレトロ・ウィルスについての本(たしか題名は『パンツを履いたり脱いだりするウィルス』1988年)を出すことになるとは、さすがの彼女の予知能力にも思い及ばなかったところであった。

 「狩元クンの身の振り方ばかりは予知不能だわ、多分これからも・・・・」

 

 「それはともかく

 すっくと彼女は、腰掛けていたベッドがら立ち上がった。

 「やるだけのことは、やるしかない」

 

第2章 永劫回帰

 

 近頃、首都圏の女子高生の間で奇妙な噂が広がりつつあった。むろん、いまや彼女らの間では、呪いのビデオを見ると一週間後に必ず死ぬということは、もはや噂ではなく事実であった。

 

 この段階までに呪いの実体であるリング・ウィルスはどんどん変異を続け、急速に毒性を低下させていった。ウィルスというものはあまりに毒性が強いと、感染が広がる前に感染者が絶滅してしまい、それきりとなってしまう。毒性を弱めることで感染力を強める、これが、天然痘ウィルスと山村貞子の遺伝子存続への無念さの結託から産み落とされたリング・ウィルスの、当然の進化の方向であった。毒性を低下させたリング・ウィルスは、感染後の潜伏期間がどんどん長期化しているようであった。そのため、不定期に死ぬ者が続出していたが、これがほんとうに「呪い」のせいなのか、たんなる偶然かが、ちょうど社会的に騒がれはじめた時期なのである。

 

 いま女子高生たちの間で広がりつつある噂とは、山村貞子の呪いを解除するという占い師「ほんとうの山村貞子」の噂。彼女は、満月の夜、深夜二時、首都圏の高層ビル街の一角にあらわれるというのだ。だが、それが正確にどこかはもちろん誰も知らない。

 

 「きみ、もしかして、ほんとうの山村貞子さん?」

 深紅のマントに頭からすっぽり身を包み、胸に五芒星(ペンタグラム)のペンダントを着けた、いかにも西洋の魔女といった風情の若い女が、真夜中のこんな時間に、こんなところで占いをやっているなんて、まるで作り話と現実がごっちゃになった時代だな、と思いながら、山台嗔介は語りかけた。

 

 社会学を研究しているという山台嗔介は、女子高生の生態を研究するなどして、女子高生の噂をすばやくキャッチする独自のアンテナをもっていた。そして、噂という見地から呪いのビデオや山村貞子についてリサーチしているうちに、それが抜き差しならない出来事だということにぶちあたってしまった一人である。呪いを解除する「ほんとうの山村貞子」の行方を、彼はこの一週間、必死に探し回っていたのだ。

 

 占い師はゆっくりと、だが確信にみちた調子で深々と頷いた。

 「あなたも呪いを解除してほしいのですね?」

 「いまからちょうど一週間前のこの時間に、いちばん原型に近いとみなされるリング・ビデオをみてしまったんだ。もしあれが本物だとすると、あともうわずかの時間で呪い殺されることになるわけだ」

 「それは・・・・、際どいところでした。でも、もう大丈夫です」

 と、そのとき、どこからともなく、何か放送終了後のテレビのような、ざーっという雑音が夜陰に鳴り渡り始め、空気が冷たく淀みはじめるようであったのを、夢としか思えないような鮮やかさで山台ははっきりと感じた。そして、来た来た、という感じで重苦しい声が響いてきた。

 

 「山村貞子の名前をかたっているのがいるって聞いたけど、あんたね。いったい、どういうつもりなのかしら?」

 声がするほうを振り向くと、そこには長い(いやなぜか「永い」という字をあてたくなるような)不気味な黒髪で顔を覆った、一人の女が立っていた。

 「さ、さだこ・・・・」

 山台は、メンドゥーサのようにみただけでさえ悶死するといわれている恐怖の怨霊・山村貞子に、こんな薄気味の悪い真夜中に遭遇してしまったことに心底、絶句した。だが、「ほんとうの山村貞子」のほうは表情を変えることもなく静かに言い放った。

 「あなたを誘い出すためよ

 二人の貞子は睨み合った。

 

 湿った生暖かい風がどこからともなく吹き上がってきて、地の底から呻くような呪文のようなものが聞こえてきた。

 「創造主、テトラグラマトン=YHWH=、アドナイ、エンソフ、ブラフマンなる者よ、無限階乗世界の悪無限の外にあるのでもなく内にあるのでもない者よ、コスモプラトール・ミトラよ。自己展開し自己自身を認識し確証するプロセスそのものが、プログラムによって規定も限定もされえず、無限にして自由なる者そのものの思惟の過程なる思惟そのものよ。闇の奥底より彷徨い出でしこの死霊に安らかなる眠りを!」

 

 突如、轟音がうなり始めた。はっと振り向くと、閃光がはしり目が眩む。いままで止まっていた無人トラックの照明灯がぎらぎらと輝き、こちらに向かって猛スピードで急発進してきたのだ。それはあまりに一瞬のことで、永劫の過去からの怨みつらみを絡みつかせたような髪に顔を覆われて、いま現れたばかりの山村貞子が、あっという間もなくどーんと派手に宙空へと跳ね飛ばされてしまった。映画の『エクソシスト』のシーンのように首がぐるりと180度ねじれただけでなく、四肢もあっちこっちとあらぬ方角に向いたようになって道路に横たわる、無惨なうえに無惨さを今また加えた山村貞子が、振り乱した髪の合い間からいまわの際の呻き声をあげた

 「お、お前はいったい、何者・・・・?」

 「忘れたの? 私こそ、ほんとうの山村貞子だって。あなたは、私の能力に、この世の人々の怨念と呪いのエネルギーが凝固して呼び起こされてしまった影の増殖する一分肢にすぎないの。静かに眠るがいいわ」

 

 「いったいどういうことなのか説明してくれないか」

 先程までの無気味な真っ暗闇が信じられないような明るい喧噪が、不夜城といわれるこの都会には、すぐ隣り合わせで存在している。吹っ飛ばされた山村貞子の亡骸は、闇そのもののうちに溶け込むようにして消えてなくなってしまった。深夜営業をしているファーストフードに連れ出した「ほんとうの山村貞子」に、山台嗔介はインタビューを試みていた。

 

 「きみが、ほんとうにほんとうの山村貞子なのか?」

 「これ

といって、彼女は名刺を差し出した。

 「黒魔術・タロット占い師 HOKINA SEIKA? これが君の職業と名前?」

 「そうです。まあ、アルバイトみたいなものなんだけどね」

 「・・・・。何もかもが、エンターテイメントの作り事そのままだ。現実と作り事の境界が崩壊をはじめたみたいだ・・・・。でも、それは社会現象としてならなんの不思議もないことだ。だが、いまさっき目の当たりにしてきたことは自然現象としてなのだ! 一体どういうことなのか、きみには説明できるのかい? できるというなら、どうか説明してみてくれ」

 

 原型に近いとされる呪いのビデオをみてからの一週間の極度の緊張、そして、そのクライマックスともいうべきさきほどの荒唐無稽な出来事。山台はさすがに哀願する口調になって、「ほんとうの山村貞子」を名乗っていた、いまは「黒魔術・タロット占い師 HOKINA SEIKA」を名乗る、まだじつは若い娘に問い尋ねたのだった。

 「そうね。どこから話せばよいものかしら・・・・」

 彼女が正面に顔をあげて語り始めようとしたとき、深紅のマントに包まれた占い師の冷ややかで整ったといえる顔だちを、このとき山台ははじめてはっきりとみたのだった。そのとき極度の疲労からくるデジャヴュ(既視感)のようなものを感じた。

 「あれ、なんだかどこかでみたことがあるような。これだけ端整な顔立ちの子は滅多にいるわけじゃなし・・・・」

 

 「もともと、この世界に山村貞子の怨霊が現れたのは、小説がきっかけよね。呪いのビデオははじめは小説の中で発生したの。そして、この小説の中の呪いのビデオが今や、この世界の現実のものとなっている。つまり、山村貞子の怨霊が小説の世界から抜け出して現実世界に現れたというわけ」

 「小説がきっかけだが、映画化されたあといちだんと普及力を高めたわけだね。ところで、君は山村貞子の怨霊というけど、貞子はクローン人間として甦ったんだから怨霊じゃないんじゃないかなあ」

 

 山台は、小説の筋書きを思い起こしながら、やや意地悪く問い返してみた。それに対して、彼女はこともなげに答えた。

 「そう、クローンとして甦った貞子は人間であり物質的存在です」

  「そうなの。じゃあ、なんで・・・・」

 「でも、呪いのビデオの怨念が人々の邪悪な無意識の波動と共鳴して、増殖し徘徊をはじめたのは、文字通り怨霊としての山村貞子なの。さっき、トラックに跳ね飛ばされた怨霊の貞子がすーっと消えてなくなるのをみたでしょう。怨霊の山村貞子というのは、井戸の底の貞子の念が産み落としてしまった呪いのビデオがさらにホログラフィ化したみたいなもの

 「ホロクラフィねえ・・・・」

 

 「呪いのビデオそのものは、観るとリング・ウィルスが発生するというメカニズムなんだけど、それを観る人々の無意識のうちに潜んでいる邪悪な波動と共鳴するとき、あの恐ろしい黒髪に顔を覆われた怨霊のホログラフィが産み出される。それは、それを人々が望んでいるから。井戸の底に朽ち果てた哀れな山村貞子にしてみれば、まったくあずかり知らぬところだわ」

 「なるほど、怨霊の貞子はあくまでも物質的存在ではないわけか。だけど、それじゃあなんで、トラックに跳ね飛ばされたりしたんだ? あ、そうか。あのトラックもまた君がつくり出した、いわばホログラフィだったのか。君がほんとうの山村貞子だというのはやはりほんとうなのか」

 「そう、ほんとうの、とは物質的存在としてのという意味。でも山村貞子という名前そのものは小説や映画のものなんだけどね」

 

  店内には、かなりテンションの高い音曲が鳴り響いているが、会話の邪魔になるほどではない。山台は、もうとんでもなく深夜だというのに、今頃になっても学生服姿のまま店内に入ってくる女子高生たちの一団の、アフリカ的段階への回帰といった風情のメーキャップと言語習俗とに一瞬気を取られた。それはむしろ彼にはおなじみのものであったが、それに対して、いま目の前にいる白系ロシア人を思わせる肌をした若い女性も、たいして彼女らと年は違わないことに、あらためて奇妙な非現実感を感じた。

 

 彼女は相変わらず無表情のまま語り続ける。

 「それで、フィクションの世界での山村貞子の呪いのビデオやリング・ウィルスは、スーパーコンピュータ内部に生命進化の過程をプログラムしたループ・プロジェクトによって造られた、ループ界という仮想世界に発生したコンピュータ・ウィルスが原因ではないかとされているでしょう。でも、ほんとうの原因ははっきりしていないのだけど」

 そういって、彼女はしばらく間を取ってからまた話を続けた。

 

 「ループ界の高山竜司というプログラムの中の人物が、いまわの際にループ・プロジェクトのプログラマーにコンタクトをとることに、なぜか、成功してしまった。そして、彼のプログラムの解析をもとに遺伝子情報を翻訳して、クローン技術を使ってひとりの赤ん坊が産み落とされた。でも、この赤ん坊の排泄物から漏れ出したと推測されているリング・ウィルスの変異型転移性ヒトガンウィルスによって、不治の病が蔓延していくこととなった。彼は、青年となったとき、みずからの出生の秘密を知って、また、蔓延する不治の病の秘密を知って、それを克服するために、みずからの身体を分解してコンピュータ・プログラムへと変換して、再びループ界に降臨したのだわ。それで、不治の病も克服される方法を見出すことができたってわけね。ループ界に降臨したとき、高山竜司は元いた世界の親しい人々が救済されることを信じて、ループ界の海辺から天空の彼方を見つめたのだったわ」

 ここまでいっきに語り続けて、いったん彼女は一呼吸入れた。

 

 「ところで、このループ界よりも相対的に上位のメタ・ループ世界のことを、えーと、かりにらせん界と呼んでおきましょう」

 「らせん界?」

 「そう、かりにらせん界と呼んでおきましょう」

 ちょっと混線してきたので、山台は確認を入れた。

 「らせん界というのが、ようするにスーパー・コンピュータでループ・プロジェクトと呼ばれる生命進化のシミュレーションを行っていた世界ってわけだね。ループ界かららせん界へと引き上げられた高山竜司の遺伝子情報をもとに、クローン技術を駆使して一人の赤ん坊が生み落とされた。だが、それがきっかけとなってらせん界には転移性ヒトガンウィルスが蔓延してしまった。その解決のためにこの赤ん坊は青年となったときに高山竜司として再びループ界へと降臨していった。こういう話だったね」

 

 彼女は相変わらず表情をほとんど動かすこともなくきっぱりとしたトーンであっさりと答えた。

 「そうです。もっとも、だけどね、そのときらせん界では、反作用としてスーパー・コンピュータの画面から、長い髪に顔を覆われた山村貞子の怨霊が這い出してくることを避けることはできなかったの。高山竜司がループ界に戻ったとき、すでに山村貞子の怨霊はスーパー・コンピュータの画面から抜け出て、海岸から大空を見つめる高山竜司を見下ろしていたのだわ・・・・」

 スーパー・コンピュータの画面から、爪もはがれ白鑞化した手を突き出して這いずり出てくる貞子の怨霊の姿をイメージして、さすがに山台はぞくっと悪寒がはしるのを感じた。

 

 「スーパー・コンピュータの画面からも貞子の怨霊がねえ・・・・」

 「つまり、高山竜司のようなウィルス・バスターをループ界に書き込んだとしても、山村貞子は無限に連鎖する階層世界の間で次々と伝播してゆくということなの」

 ここまでは彼女もあまり気持ちのよくなさそうな口振りであったが、続けて少し気が晴れたように言った。

 「ただし、そうはいってもね、すでに転移性ヒトガンウィルスの猛威を経験していたから、らせん界での怨霊・貞子の鎮魂はあっけなく終わったみたいだけどね。犠牲者は、不幸にしてそのときコンピュータ画面の前にいた一人だけだった・・・・。それ以上には、ビデオもフロッピーもいっさい複製・増殖されることなく、らせん界ではじつにあっさりと閉じてしまったわ。だから、らせん界での物質的存在としての山村貞子は何も働かなくてすみました」

 

 らせん界では山村貞子は何もしないでよかったということは、らせん界にも物質的存在としての貞子がいたということになる。

 「あっ、そうなの。らせん界にもクローンとして山村貞子は復活したわけ?」

 「高山竜司そのらせん界における分身と杉浦礼子さんの間に誕生した赤ん坊として、ね。ちゃんと、甦りを果たしましたよ。しかも、ループ界での高野舞さんと違って、ビルの屋上の排気孔の中で分娩して命を落とすようなこともなく、大学病院で無事祝福された出産をして、母子ともに平穏に暮らすことができたみたい

 

 こころなしか優しいトーンになって彼女は付け足したのだった。山台は、彼女の話を整理するために反芻してみた。

 「ふーむ。そうすると、ループ界で発生した山村貞子の呪いは、らせん界には転移性ヒトガンウィルスや怨霊・貞子のかたちをとって伝播し、さらに、われわれの現実世界にも伝播してきた、と。しかし、らせん界では、転移性ヒトガンウィルスがすでに存分に暴れ回っていたから怨霊の貞子には暴れる余地がなかった。だから、らせん界に甦りを果たしたクローンの貞子は何もすることがなかったと、こういうわけだね・・・・」

 

 ここまで一方的に話を聞いてきた山台は、しかし怪訝な顔で首をかしげた。

 「だけどねえ・・・・。君の話では、ちっとも虚構の世界と現実の世界の境界が崩壊しはじめたということの説明にはなっていないなあ」

 これに対しても、表情もトーンも変えることなく答えがはね返されてきた。

 「それは、説明しようとしても、しようがないでしょう。ある意味で山村貞子の呪いは、上位世界からでもなく、下位世界からでもなく、すべての階層世界において連鎖的に発生する。鏡の無限連鎖がそうであるように・・・・。だから、すべての究極原因はより上位の世界に移行してしまって、際限がないのだから。すべての階層の世界で虚構と現実の下位と上位の境界が崩れてしまうということは、その究極の原因などは説明のしようがないことだわ。ともかく、小説や映画で発生したはずのリング・ウィルスや呪いのビデオやそのホログラフィとしての怨霊の山村貞子は、この世界でも徘徊をはじめているってわけ。おわかりかしら?」

 

 彼女の巨大といってよい眼に、はじめてほんの少しの悪戯っぽい表情が浮かんだようであった。こんな話、わかるもわからぬもないではないかと山台は匙を投げる気分であった。あらためて、しげしげと彼女のその深い眼がアンバランスなまでに大きい、それでいて端整としか言い様のない不思議な顔のつくりを山台は眺めたが、あまりに整った顔立ちに思念が奪われてしまうように思われた。彼女の言葉を一方的に聞き続けるしかないようだった。

 

10

 「それでね、すでに爆発的な増殖を開始してしまった段階では、リング・ウィルスであり呪いのビデオでありホログラフィであるものとしての怨霊・貞子と、クローン人間として甦った実体の貞子とに自己分裂した二人の貞子のたたかいは、結局、ビデオや小説や映画のような媒体をつうじて行われるしかないの。メディアをつうじて爆発的に増殖をはじめてしまった段階では、さっきみたいに一人ずつ怨霊の現れるのを待って相手をしているだけでは、きりがないですからね」

 

 こういって彼女は、しばし静かに目をつぶった。ファースト・フードのBGMはいままでの騒々しいJポップ和製ホップスから、なぜかクラシックに変わっていた。目をつぶったまま、また彼女は語り始めた。

 「だから、ループ界では、1991年11月にクローン人間として、物質的存在として蘇生した山村貞子が、半年後の92年4月にオーディションを受けてみずから映画に出演したでしょう。あれは、浅川和行のリング・レポートの出版によって爆発的に増殖を始めていた怨霊・貞子を打ち消すために、新しい念写を施した映画をつくるためだったの」

 

 たしかに、ループ界では、小説『らせん』の末尾で予告されていたとおりに甦った美人女優の卵・山村貞子がオーディションを受けたのだった。だが、それは呪いのビデオをさらに強化した映画をつくり出すためではなかったのか、と山台は記憶を探りながら問い返した。

 「山村貞子は個体レベルでの増殖を促進するために、みずから映画のオーディションを受けたんじゃなかったのかい?」

 彼女はかすかに眼に哀しげな色を浮かべながら呟くように言った。

 

 「結局、山村貞子も、誤解され怖れられるためだけに存在しているような女性でした・・・・。子供の頃から彼女の行動は、根本が常識を越えた能力によるものだったから、他人に説明しようのないことが多くて、はじめからひとに理解されることを諦めるようになっていたのだわ」

 「山村貞子も」、か。なるほど、きみ自身もそうだというわけだね、と山台は心の中で呟きながら、とりあえず話を先に進めて貰うことにした。

 「それで、山村貞子の映画出演の結果どういうことが起こったの?」

 「そうね、ループ界では蘇生した物質的存在としての山村貞子の新しい念写によって、リング・ウィルスや怨霊・山村貞子がそれ以上増殖してゆく過程は、なんとか喰い止められたわ。そういう彼女の念の作用が通じ合うことによってはじめて、らせん界でもループ界へと高山竜司を再降臨させるというようにプログラムが書き換えられていくことともなった。そして、そういう具合に、物質的存在として甦りを果たした山村貞子の念がそのように実を結ぶことができたのは、それを望む大衆の無意識が、ループ界でもらせん界でもそのようにあったからなんだわ」

 

 予定調和的にも感じられるこの話のどこかに異和感を感じて、山台は口をはさんだ。

 「だけど、山村貞子はたしか・・・・。物質的存在として蘇生し増殖した山村貞子たちは、ループ界に再降臨した高山竜司によって、絶滅されてしまった筈じゃないのか」

 彼女は、一瞬きょとんとした顔をした。

 「いいえ、そうではなかったのよ。高山竜司という人物が、そのような種や類の絶滅や個へのジェノサイドに手を染めたりする? そもそも、絶滅されてしまうならば、いったいなんのために山村貞子ほど予知能力をもっている者が、わざわざ安藤医師たちをおびやかしてまで、そして自分の子宮を提供してまで、高山竜司の再降臨に手を貸したの? 何のための協力者として期待したのだと思って?」

 あらためてそう言われると、それはたしかに何でだったんだろうとは山台も思った。彼女は続けた。

 

 「ループ界で高野舞さんを身代わりにして再生したとき、山村貞子はヘンな再生の仕方をしてしまったでしょう。つまり知っての通り、生物としての多様性を失っただけでなく、記憶や自意識そのものまでも均質化したまま増殖する奇怪な種となる可能性をもったものとして。しかも、リング・レポートが出版されたことによって、その可能性は一挙に現実のものとなってしまった」

 彼女の顔が、心なしか苦痛の記憶に歪むかのように見えた。

 「その後、山村貞子自身が映画に出演して新たな念写を行ったから、増殖自体は一定の段階で止められたけれども、まったく同じ自意識と記憶の構造をもった個体がすでに無数に存在するようになっていた事態が耐え難いものであったのは、ほかならぬ山村貞子自身だわ。だから、貞子が高山竜司のループ界への再臨に協力したのは、彼ならなにかよい方法をみつけ出してくれると考えたからなんだわ」

 なるほど、そういう話だったら筋が通りやすいね、と山台は浅いレベルでの納得をした。

 

 「そしてね、まず最初に高山竜司と山村貞子は協力してリング・ウィルスのワクチンを開発した。それで、それまでにリング・ウィルスに感染した人々は命を落とす危険を免れることができるようになった。安藤医師も宮下医師も。貞子がこの二人に怖い思いをさせてまで高山竜司を甦らせてもらったのは、実際、リング・レポートに目を通してしまっていたこの二人自身のためでもあったんだわ」

 こういって彼女は、遠い眼をした。そして語り続けた。

 

 「でも、もちろん、高山竜司と山村貞子の二人が協力して行ったことはそれだけではなかった。個体レベルで無数に増殖してしまった山村貞子たちを、安楽死させるためのウィルスも製造したのだわ。これが貞子にとって、いちばん高山竜司にして貰いたかったことだったのだから・・・・。もちろん、単数の山村貞子だけはひっそりとどこかで静かな生活を送れるように、ワクチンもいっしょにね

 

11

 彼女は、しばし遠い眼をしたまま黙り込んでいた。これで話は終わりかと一瞬は思われるほど沈黙は続いたが、やがてまた話は続けられた。

 「ところで、”わたしたちの現実世界”、かりにこれをリング界と呼んでおきましょうか。このリング界でも、1998年初頭にデュアル・ムービーとして『リング』、『らせん』が同時上映されましたね。リング界での映画の評判はどうだったかしら?」

 

 自分でもわかりきっている筈のことを聞いてくるのは、話をどこに誘導する尋問のつもりなのかな、と思いながら山台は答える。

 「それは、映画『らせん』もすばらしい出来だったけど、『リング』のショックがあまりに強すぎたからねえ。御存知の通り、映画『リング』では、誰も想像だにしなかったような山村貞子の怨霊の登場が人々の度肝を抜いた。そこまではよかったが、仮想世界から現実世界へと山村貞子の怨霊が徘徊をはじめてしまったわけだなんだが・・・・」

 と言いながら、山台は、ふと彼女がさっき口にした言葉が気になり始めていた。

 「それを望む大衆の無意識が、ループ界でもらせん界でもそのようにあったから。君は確かさっきこう言ったね。それで、怨霊・貞子の徘徊は喰い止められたと」

 

 「ええ」

 「それに、らせん界ではすでに転移性ヒトガンウィルスが猛威を振るっていたから、怨霊・貞子はかんたんに鎮魂されてしまった、と」

 「ええ。ループ界かららせん界のスーパーコンピュータの画面へと這い出した怨霊・貞子が呪い殺せたのは、それをみてしまった不幸な一人だけだった。それ以上には、ビデオもフロッピーもいっさい複製・増殖されることなく、らせん界ではじつにあっさりと閉じてしまったわ。こうなったのは、きっと転移性ヒトガンウィルスの蔓延によってらせん界の人類というか大衆の無意識が、すでにさんざん悔い改めと諦念の段階に追い込まれていたためじゃないかしら。ほかに考えようがあるにしても・・・・」

 

 山台はなぜか苛立たしさと困惑の入り混じったような表情をしながら、自問自答のように呟いた。

 「ふーむ、だとすると・・・・。この世界君のいうところのリング界においては、結果として映画『リング』が爆発的に大ヒットして『リング2』、『リング3』とシリーズ化して、いっぽうの映画『らせん』のほうが幾分かすんでしまったということは。つまりは、この世界における二人の貞子のたたかいで、呪いを打ち消すほうの山村貞子が劣勢に立ったということを意味しているということか? それを大衆の無意識が望んでいるのだと?」

 

 山台は、言葉を続けた。

 「それは・・・・、われわれの世界の心理的エネルギーがそれだけ悪化しているということなのか? そういうふうに考えるのが、われわれの低下した魂にとって一番ふさわしいというのか。そんな考え方は少年時代ならともかく今の僕には認め難いところなんだが・・・・」

 HOKINA SEIKA は、それには黙って憐れみの意を示すのみのようであった。その、端整すぎる顔のどこか傲然とした憐れむふうを見据えながら山台は、いまはゆっくりと納得するように呟いた。それは少し前からすでに思い当たっていたことのようでもあったのだが。

 

 「そうか、きみは・・・・。映画『らせん』に出演したあの女優の・・・・」

 彫りが深く端整すぎるその陰翳にとんだ顔は、それを聴くでもなく聴かぬでもないように無視する風情で、ひとりごとを囁くような静謐な声で、このように語った。

 

 「そう、わたし、この世界の名による HOKINA SEIKA こそは、ある世界では、救済に失敗してみずからが時空間を歪ませてしまったもの。また、別の世界では妹としてのアンリの心臓をこのみずからの手で刺し貫き通さなくてはならなかったもの。そして、ループ界では、1991年8月のソ連崩壊の真夏にかつて新左翼の学生だったものたちの無意識の底に押し込まれていた、凄まじいエネルギーの対象喪失の無念さと怨念と対象のない憎悪とによって呼び覚まされたときに、何の関係もない人々を呪いのビデオによって死に至らしめてしまった山村貞子だったもの。私は、不幸を生むために存在し、みずから阿修羅としてのたたかいをたたかい続けねばならないのだろうか。それでも、この私は百億の昼千億の夜と終わりなき日常のただ中で魂のたたかいを続けるだろう。この時、この次元においては、この世界の下劣なエネルギーが結晶化して生み出した、低級霊域の悪霊と化した山村貞子とのたたかいを!」

 彼女は顎をぐっと引き、奥歯を噛み締めて自らに言い聞かせるように呟いた。

 

 「この”わたしたちの現実世界”リング界では、怨霊・貞子をもとめる人々の念の力は、もはや取り返しのつかないと思えるほど強力で、デュアル・ムービーのときにはちょっと歯が立たなかった。でも、HOKINA SEIKAのたたかいは始まったばかりだわ。まだ、1999年7月にすぎないんだから。新しい千年紀が明けてこそ、本当の意味のたたかいは始まる

 ファーストフードの窓の外では夜が明け始めた。高層ビル街の人気のない道路に、鴉が無数に降り立っている。それは、遥か彼方の希望のずっと手前にある不吉さを予兆しているかのようなのである。

 

1999年8月8日 稿了)

 

 *この作品は鈴木光司『リング』『らせん』『ループ』、テレビ東京版『エコエコアザラク THE SERIES』のあからさまなパロディです。

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